ナマケモノ・なまけもの・怠け者の健康術

ナマケモノ・なまけもの・怠け者の私が続けています。 こころのこと、からだのこと、そして呼吸のこと。 薬に頼らず健康になる。 身体の歪みは自分で直そう。 姿勢術−姿勢がことのほか重要です。 合気

心身不二

「心真一如」ということばがある。
「心と身は一つのもののごとし」である。

「心身不二」ということばもある。
「心と身は二つのものでない」という。

「一如」は辞書では「二つにわかれないこと」とある。
「一如」も「不二」も同じ意味になる。

だが一如・・・一のごとしだとは心と身の間に距離感・時間差を感じる。
不二にはされはない。

合気の先生が合気の会得に「身体の変換が必要であると書かれた。
これはいままでいわれたことがないと思う。

新しいキーワードである。
身体の変換=心の変換だろう。

見えない心と見える身体が一つのものというのもわかりにくい話ではある。

身体が動くとそれにつれて動く別の身体がある。
心が動くとそれにつれて動く身体がある。

だがそれは別の身体であって心ではない。
別の身体、別体もあると書くとさらに複雑になる。

「呼吸は見えないこころと見える身体を繋いでいる架け橋であり、身体は見えないこころ(内的環境)と気候風土(外的環境)の表現体である。」とHPに書いている。

身体の状態、それは姿勢であり重心である。
そして常に力みのない身体を維持し続ける身体ということであろう。

力みのない身体とは心が出しゃばらない、つまり感情や意志・意欲に動かされない身体ということになろうか?

ネアンデルタールなぜ滅んだか?

ネアンデルタール人は30万年前から2万数千年前まで生存していたといわれる。

ネアンデルタール人がホモサピエンスの先祖ではないがネアンデルタール人の脳容量は現生人類より大きく、男性の平均が1600cm3あった(現代人男性の平均は1450cm3で身体も頑丈だったらしい。

なんで姿を消したのか?気候変動の所為といわれているがそうだろうか?
それならホモサピエンスはなぜ生き残れたのだろうか?

ネアンデルタール人は頑丈な身体を持っていたといわれている。
多分それが原因ではないかと考えている。

身体の弱い人ほど感性・感覚は鋭い。
身体の丈夫な人間ほど無茶や無理をする。
イチローvsゴジラで選手寿命を考察したことがある。4年前のことである。

ゴジラは身体や内臓が丈夫に出来ているからイチローに較べたら無茶をする。
無事これ名馬、よってイチローの方が選手寿命は長くなるだろうと見ている。

それが的中しつつある。ゴジラは膝を痛めていてそれも両膝である。
手術をしたとか。手術をして元通りになることはあるまい。

ネアンデルタール人が絶滅したのはその身体の頑健さであり、現生人類が生き残ったのはそのひ弱さからくる感性・と感覚の鋭さがあったからfではないかと考えている。



背中側で挙がらない手を挙げる二法

下記は、ミクシイに先日書いた日記である。これを第一法とする。

手を後にまわして背中で上と下からタスキがけにすると、右手を上にした場合と左手を上にした場合で大きな差がある。

5センチくらい差ならば合掌両手ゆらしとキラキラ星をやれば即座にくっつけることは可能である。

手技で教わった方法がある。

それは相手をうつ伏せにしておいて、上がらない方の手首を操作する。
脇の下をこちらの足を延ばし小指の線で固定し、相手の尺骨側を軽く延ばし数呼吸、手首を曲げ親指以外の指を内側に曲げこんで数呼吸する。

これで重症の五十肩でも少しは上がるようになるとか。

やっていて思い出したのは合気道でやる準備運動に二教運動と小手返し運動である。

手首の伸筋側を伸ばせばよい。

ならば座ってTVを見ていても出来る。

手首の甲側を丸めて膝の上でおいて軽く圧を掛けていればよい。
これが一番簡単である。

質問があってわからないという。

「手首の伸筋側を伸ばせばよい。
ならば座ってTVを見ていても出来る。
手首の甲側を丸めて膝の上でおいて軽く圧を掛けていればよい。」
と本文に書きました。

軽くゲンコツを握ると手は伸筋側が伸びます。
後は手首を内側に曲げれば手首の伸筋側が伸びますよ。
そのまま膝の上において、伸筋が伸びるように圧を増せばいいだけです。
その上体でゆっくり10−30呼吸をします。

上記は伸筋側の伸展する法である。屈筋を伸展する法もある。
小笠原流礼法で女性が行う座礼がある。正座して両膝に置いた両手を膝の横に下ろして床に一旦両手の平を着いてから指先を後に向ける。また前に向けてそれから上体を倒していく。

礼法に参加されて女性、多分40代。この女性うんと身体が固かった。それが先日、後合掌をして見せた。それも両肩胛骨の中間で合掌して見せたのである。これには舌を巻いた。

参加し始めて4−5年くらいだろう。肩がやわらかくなり座礼でもやわらかい美しい動きになってきていたので肩周辺がやわらかくなってきたのはわかっていた。だがこれほどとは思ってはいなかった。

筆者も数年前は後合掌は出来た。だが肩胛骨の下であった。いまは右肩を痛めて全く出来ない。
聞くと毎日、膝の上で指先を自分の方に向けてのストレッチをやっていた由。

これだと息を吸いながら屈筋側を伸ばし、息を吐きながら戻すということになる。ところが彼女は呼吸を意識してやっていなかったらしい。だが礼法をやり続けている。礼法では動くときは吸気で動くことになっている。それで自然と呼吸が合っていたのであろう。

目の上の打撲

合気の稽古で右目の斜め上をガツンとぶっつけてしまった。
すぐお手当をしてもらって、痛みは7〜8割は消えた。

とこらが立ち上がるとプクーっとふくれてきた。
右目の斜め上上にクルミ半分くらい突出した感じである。

そこでまたお手当をしてもらったのだが、どうも立ち上がるとふくれるらしい。
これはなんでだろうか?立って筋力を使った分、流れが悪くなるのかもしれない。

今日のテーマは「腰の力を抜く」ということだった。

立ち技の場合特にそうだ。
膝・腰に力が入る。
そうするといつもの稽古相手だとお互いにワザが掛からない。

数週間前にこれだこれだいって喜んだのはどこへいったのか?
日が経つに従って段々下手になっていくような錯覚を起こすくらいだ。

お互い感覚が磨かれ進歩しているのは間違いなさそうである。

帰りの電車思いついた。眉を上下から挟むバランスが整うのである。身体のやわらかい方ならば5センチくらいは前屈が変わる。

前に他のコミュに書き込んだらビックリした方からメールを頂いたことがある。

プクッと膨らんだところを上下に挟んでいるだけである。
痛みがなければ呼吸と連動させてもよい。

この場合は呼気で圧を加え吸気で戻す。
指を放すと3秒くらいはスッとする。

電車の中ではもっぱらこれをやっていた。
それで大分晴れは収まった。
目尻のあたりが僅かに赤い。内出血しているらしい。

駅のトイレで鏡をみると、直接ぶつかった部分が青くなっている。
ぶっつけた後、目の上に庇が付いた状態は消えている。

そこで持っていた銀色ボールペンで腫れている部分に横線を数本入れた。
指で挟むのと同じ効果を狙ったのだが、今ひとつハッキリしない。
指で挟む場合は手応えがある。

さて翌朝である。すぐ鏡を見ると右目の外側が赤黒くなり上瞼が少し膨らんでいる。
目の内側・上下も赤くなっている。

ところが起きていると目の回りの赤みが増してくる。
目元・目尻が赤黒くなってくる。

それならばリンパマッサージである。
目の上・下、耳の前・後、首と軽く撫で下ろしすこと数回。
後は合掌両手ゆらしとおしゃかさまゆらし。

やれば色は薄くなる。薄くなったものの数秒後にはまた元に戻っている。
直接ぶっつけたところの青みもほぼ消えた感じにはなっている。
利いている。だが直ぐ戻る。

直接ぶっつけたところは右目の斜め上である。
それなのにどうして目の周辺が赤くなるのであろうか?

目の周辺の毛細血管が切れるのか?
目の上のたんこぶということばあるが、ぶっつけたところの腫れで血流やリンパな流れを阻害するかなこうなるのか?

こんなに目の周辺が赤くなるのならば豆腐を当てた方がよかったかもしれない。



足に踏ん張り

古いゴム草履と今年買ったゴム草履の二足ある。
何となく捨てそびれていた古い方を今日ゴミ捨てに履いていった。

違和感がある。古い方は踵の外側が大分、両方ともすり減っている。
改善されたもののO脚で外重心ということだ。

そのための違和感ならば更に改善されたということかもしれない。
足の感覚で上体はバランスをとるべく即自動で対応するようになっている。
古い記憶は常に顧みないようになっている。

先日も書いたように多くのかたが脚にゆがみがある。
腰痛があるときもそうだが、肩が固くなっているときもアキレス腱の上あたりが固くなっていることが多い。
上体と下肢は相互に連携しあってバランスを維持しようと働いている。

声を出しながら歩いていると息が上がるというのも、身体の感覚がさらにシャープになったということかもしれない。

そういうことを考えるのも肩の周辺が多少は改善されてきているのかもしれない。
10年以上続いている肩のゴリゴリ音は、右が少なくなってきている。

歩いて声を出していると鳩尾の僅かな緊張があるのがわかる。
それを意識してゆるめないと続かない。

犬や猫は足音をさせないで歩く。
そのために足の豆を発明し、人間は足にアーチを作ったと書いたことがある。

だが多くのまずまず健康な人々は足を踏ん張って立ち歩いている。
履き物や踏ん張りが足のアーチをつぶしていることが多い。

それは意欲的に生きている証でもある。
直立二足歩行の人間の宿命かもしれない。




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