第一の矢は受けても第二の矢は受けず

14年前に書いた文章です。
029 こころが先でしょうか?カラダが先でしょうか?   2002-6-3(月)

心療内科ということばが定着して30年以上になる。
当初、精神身体医学という表現もあった。これが従来の医学を総括するのではないかと期待した。しかしそうはならず単なる医学の一分野、内科・外科等と同じ位置づけになってしまった。
中公新書に先年亡くなられた池見酉次郎氏の書かれた「心療内科」がある。三〇年以上も前に書かれた本なのに、版を重ね77版になる。そして今もって売れている名著である。はらわたが煮えくり返っている写真を見てびっくりした記憶が今も鮮明に残っている。
心療内科では心が原因で身体に表れる病気を取り扱っている。
お釈迦様は第一の矢を受け手も第二の矢を受けてはならないといった。
この第一の矢は身体の病気・傷害をさす。第二の矢は病気や傷害からくる精神面の二次的ダメージを指している。心療内科と原因・結果の考え方がが逆である。

「心主体従」ということばがある。中村天風先生に教わった。
逆の「体主心従」のカラダの症状に囚われて一喜一憂する人があまりにも多いのでそう強調されたのだ。合気道でも天風会でも大先輩に当たる藤平光一氏は植芝盛平翁が強かったのはこころを導いて後、身体を送り込むからだといっている。
氏はこの「心主体従」こころがカラダを導くということを聞いて合気道に開眼したという。筆者は天風先生が亡くられて20年位して心身ともどん底に落ちた。
その時この「心主体従」ではどうにもならなかった。教わった心身統一法がほとんど出来なかった。やる気も湧いてこないのだ。教わったなかで呼吸法がわずかに効いた。
10分くらいで気持がすっーと楽になったのだ。やり続けることでどん底をやっとのことで脱した。

古歌にいわく「心こそ心迷わす心なり。心、心に心許すな」がある。
「意馬心猿」ということばもある。(暴れ馬や騒ぐ猿のように自由にならないという意)コロコロと変わるからこころというのだとか、こころというものは制御が難しいものだ。達磨大師の面壁九年の例もある。座ること9年ついに足が腐って無くなってしまったという。むろん、症状によるが軽度・中程度まではどんな方法であれ効くだろう。でも本当に重症の場合、呼吸ではないだろうか?こころとからだと呼吸は一つのものと考えている。「心・身・息一如」そして「息主心従」「息主体従」という勝手な造語も生まれた。
「心主体従」も「体主心従」もいずれも呼吸が仲立ちをしている。
呼吸なしでは成り立たない。「胸が張り裂ける」「はらわたが煮えくり返る」は前者である。、その時のこころの状況を思い浮かべ、呼吸を味わってほしい。
精神的な緊張は息を止めることによってカラダに表現される。胸が張り裂けそうなときこころの手法で何とかなるものだろうか?

「こころを入れ替える」ということは呼吸を替えることなしで成り立たないものと考える。「腰を入れる」「腹をくくる」は後者だろう。その体勢をとり呼吸を味わってほしい。
体の面からこころを固めようとしている。こころとからだと呼吸は生命の表現であり同時に動いている。見える肉体は見えないこころの表現体であり、呼吸は感じるものである。息ーこころーカラダ・こころー息ーカラダと切れ目無くつながっているものであり、一つの流れと見ると理解しやすい。その時は「心・身・息一如、円環の理」という。



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