「TVドラマは下手であまり見る気がしなくなってきたわ」
語りの教室に参加しているある女性がいう。確かに筆者もそう思う。
ここでは限定15人である。長くやっている方が多い。10年以上が3名、4年以上が8名もいる。みんなと一緒にやる簡単な身体ほぐしと発声練習が終わると個人稽古になる。
持ち時間は10分もないかもしれない。語ると先生の評が入る、それを何回もやる。その間、他の人は聞いているだけである。だから自然と耳が肥えてくる。
最初にいただいた台本を終了するのに何年も掛かる。だがやっているうちに僅かづつではあるが確実に進歩していく。
TVドラマではそんなに稽古に時間を割けないだろう。毎日放映の連続ものなら尚更だろう。個々のセリフや演技もさることながら相互の呼吸にずれが、出てくるのはしょうがないことなのかもしれない。
ところが先生の行き方は全く逆というか稽古に時間をたっぷり掛ける。そして公演になるのだがほとんどが大赤字になるらしい。
横浜ボートシアターといっても殆ど知られていない。克っては超売れっ子の脚本・演出家であったのだがそれらに背を向けて数十年になろう。
元来、演劇というのは神や祖先との対話から生まれた。それが極端に商業化・商品化されたのが日本とアメリカである。その国の伝統・文化を守っていくために外国では国の手厚い援助があるという。それで役者をやっていける由である。
こんど「小栗判官・照手姫」を新しい構想の下に、オーデションで出演者を選び稽古に入っている。脚本・演出 遠藤琢郎、演出振付 ケイタケイとある。
昨年8月より稽古をはじめ公演は9月13・14・15日で4回の公演である。1年間の時間を掛け稽古を重ねている。時間・労力を考えたら全く割りあわないことである。
旦那の反対を参加させてくれないならば離婚だとまでいいきって参加した主婦のことを先日書いた。人は割に合わなくとも、自分を表現していきたい動物らしい。
「はじめにことばありき」と聖書にある。「ことばは神なりき」と確か続いた。
「ことばの前に意識ありき」といいたかったのだが、イエス様はことば=意識と考えたのかも知れない。
「もの・こと=ことばだった」を二年前に書いている。
この世の中にないものを作り出すことが出来るのは神様と人間だけである。
人間の意識というか想念が不思議な力を持っている。日本には「言霊」ということばがある。その不思議な力が伝染していくのは当人のリラックス度合いによる。
オームの法則によれば抵抗が少ないほど電気はよく流れることになっている。
筋肉の緊張癖が固い身体をつくる。本人は力を入れていることに気が付かない。
「自分をその気にさせる」そうすると技がうまくいく。名人のごとく見事にうまくいく。その気になっているから身体の方に意識が行かない。
「心主体従」について書いた。そのときは「心身一如・心身不二」の立場で心=身の立場で書いたように思う。
だがこれでいくと体術止まりになりそうである。体は見えやすく心は見えないものである。
だが「心主体従」の心となにか?仮に意識と考えると納得がいく。もっと別なふさわしい表現があるのかも知れない。意志なのかもしれない。意識にしろ意志にしろレベルがある。
ハイレベルとローレベル、何段階もある。思ったことがすぐにスムースに支障なくすぐ実現するレベルがある。その実験にはぶつからない力の稽古ー合気がもってこいなのだ。
思念とか念力ということばもある。念は今の心と書く。その心になりきればよい。だが筆者は念というと「邪念・我」が入りこみそうであまり使いたくない気持ちがある。
「いまという間にいまはなく、まの字来たればいの字去りゆく」という古歌がある。ホンの一瞬に集中する。その段階において邪念はない。故に技が決まる。
次も同じようにやろうとすると既に違う。それは思考が支配するものとなる。思考は動きを殺してしまう。微妙な世界をことばで表現することは難しいし、ことばに対しての受け取り方もみなそれぞれ微妙に違っている。
微妙な事柄をことばを以て伝えることにムリがある。「不立文字・以心伝心」ということばが生まれたのも納得がいく。
高度の意識・意志が生まれるとそれが空間を支配する。時間・人間(じんかん)も支配される。イエスさまのいった「はじめにことばありき」はそういう世界のことをいったのであろう。
人間の意識というものは時間・空間・人間の三間を支配する力をもっている。