「菜の花の沖」

司馬遼太郎の作品はずいぶん読みました。
特に
「龍馬がゆく」
「坂の上の雲」
「翔ぶが如く」
「播磨灘物語」など夢中になって読んだものでした。

お陰様で乃木大将や伊地知参謀長を愚将・凡将と思いこんでいました。
その認識を改めたのはごくごく近年のことです。

あらまし読んだつもりでいましたが、「菜の花の沖」は読んでいませんでした。
図書館で立ち読みして面白くなり借りてきました。
四巻まで読みました、後まだ二巻残っています。

若衆宿に入るに必要な祝儀代も事欠くような極貧の農家に生まれた嘉兵衛が、網元の娘と駆け落ちし腕っこきの船頭となり、さらに豪商に成長していく物語です。
司馬遼太郎の文章を引用してみよう。

まずおふさから、
「おふさは京顔といわれていた。浜そだちにしてはめずらしく色白で、目鼻だちが小ぶりにととのい、笑うと小さなあごがくびれて可愛かった。おふさがいかに美しかったかということが、永く土地の伝説としてのこったことをみても、若者たちが、魅かれていた彼女の容姿は尋常なものではなかったのだろう。
全体に小造りだが、身うごきにリズムがあり、針仕事の手の動きでさえ、若者たちにとって見飽きることがなかった。というよりおふさがそこにいて、若者たちはことさら視線をむけなくとも、リズムで彼女を感じることができた。
だれもが、おふさを大切にしていた。かって若衆の中で軽薄な男が、路上で元気のないおふさに会い、つい冗談で、
・・・・・・潮か。と、いった。月のものか、という意味である。からかった若者はそういっただけで、後で宿の評定に引き出され、中若衆たちからさんざん油をしぼられた。」

ついで嘉兵衛である。
おふさと二人御番所の前を通ったとき嘉兵衛のことばにおふさがころころと笑ったのを役人に咎められた。
「御番所の後門前で笑うとは、上をないがしろにしたふるまい。存念を言え。なぜ笑った」
「屁の話をしたのでございます」
「屁をhったのか」
「とんでもございませぬ。物のたとえを申しただけでございます」
「なにを屁にたとえたのだ」
嘉兵衛は一礼しておふさのもとにもどり、小声で、旅籠に帰っておれ。後は自分が応対する、といって逃がし、童心のもとに戻って、
「御役人衆は屁のようなものだ、と・・・・・・・・・」
と両眼に力を込めて言い、言いすてるとゆっくり立ち去った。同心は嘉兵衛の気魄におそれたのか追ってこなかった。
嘉兵衛は逃げたわけではない。立ち去っただけであった。もし追ってくれば御番所へゆき、与力にも会い、必要なら大阪まで行って町奉行の前に引き出されてやろう、と覚悟した。
といっても、どうなる相手でもない。しかし肚だけを据えると、二つの脚で立っているだけの人間になり、身分制の衣装をぬぎすてた裸の気分になった。
気魄は、裸の心境から沸きおこった。それが炎立つようにして相手に感じさせたらしい。同心の表情にひるみが浮かび、あわてて左右を見まわしたのは、仲間をのとめるつもりだったのだろう。
このため同心は、嘉兵衛の名も、生国、寄留先、職をきかずに取りにがしてしまった。
この経験は、嘉兵衛の生涯に影響した。
こちらが」裸の人間としての尊厳をもちさえすれば、相手も身分制や立場の衣装をぬいで裸にならざるをえないという人間関係の初等力学のようなものが、嘉兵衛の腑のなかに棲みついた。」

上記の文でおふさと喜兵衛の姿を眼前に見るような気持ちになりました。
司馬遼太郎の筆力・文章力に改めて感心してしまった。



いろんな治療法やら運動法があります。         
 それらがあなたのお身体に合っているでしょうか? 

 合っていれば少し宛日々改善されていきます。
 合っていなければ日々身体は固くなりゆがんできます。         
 
 その効果を確認する方法をお持ちでしょうか?           
 症状に合ったエクササイズとそのチエック方法を呼吸塾ではお伝えしております。
  


語りと朗読の会  「宮沢賢治を語らう」  

宮沢賢治の作品を台本として発声・表現・語り・朗読について勉強しています。
月二回木曜日10時~12時 


日本海海戦の真の立役者

致知誌のメルマガです。


幕臣として、日本人初の
世界一周をしている小栗上野介。

しかし、彼がどのような人物であるかは
ほとんど知られていません。

最新号では、維新の真の立役者と
見ることもできる小栗上野介の
歩みにスポットを当てています。

───────「今日の注目の人」───

村上 泰賢(東善寺住職)

※『致知』2017年8月号【最新号】
※特集「維新する」P38

───────────────────

時は下る。日露戦争で日本が
ロシアに辛勝した後のことである。

連合艦隊司令長官として
日本海海戦を指揮した東郷平八郎は、
小栗家の遺族を自宅に招くと、
次のように感謝の気持ちを述べたという。


「日本海海戦において
 完全な勝利を収める
 ことができたのは、
 軍事上の勝因の第一に、
 小栗上野介殿が横須賀造船所を
 建設しておいてくれたことが、
 どれほど役立ったか計り知れません」


というのも、海戦中に戦果を
挙げた中小の駆逐艦や砲艦、
魚雷艇などの多くは横須賀や呉の
造船所でつくられたものであり、
また、艦船の修理点検を国内の
造船所で迅速に行えたことも、
大きく勝利に貢献したからにほかならない。

アメリカから帰国した
小栗上野介が幕僚たちに
横須賀造船所の必要性について
必死に訴え続けていた折、
ある幕臣がこんなことを口にしたという。


「幕府の運命もなかなか難しい。
 これから大金をかけて
 造船所を造っても、
 でき上がる頃には幕府が
 どうなっているか分からないではないか」


それに対して、
小栗上野介は次のように述べた。


「幕府の運命に限りがあるとも、
 日本の運命には限りがない。

 自分は幕臣だから幕府の
 為に尽くす身分だけれども、
 それは結局日本の為であって……


※知られざる小栗上野介の歩みは
 本誌でお楽しみください。




いろんな治療法やら運動法があります。         
 それらがあなたのお身体に合っているでしょうか? 

 合っていれば少し宛日々改善されていきます。
 合っていなければ日々身体は固くなりゆがんできます。         
 
 その効果を確認する方法をお持ちでしょうか?           
 症状に合ったエクササイズとそのチエック方法を呼吸塾ではお伝えしております。
  


語りと朗読の会  「宮沢賢治を語らう」  

宮沢賢治の作品を台本として発声・表現・語り・朗読について勉強しています。
月二回木曜日10時~12時 

55歳のハゲた私が76歳でフサフサになった理由

ダウンロード (1)

腸活・腸活と何度も何度も書いてきました。
この本は丸ごと腸活の本です。
しかも腸の専門の学者さんが書いている。

本屋さんをのぞいたらこの本は平置きになっていました。
1年前に出た本なのに、いまだ平置きですから大分売れているらしい。

藤田紘一郎、自分の腸にサナダムシを飼って名前までつけている。
花粉症は人間があまりにも清潔になりすぎて寄生虫を排除したからだと主張されています。

筆者は著者よりも年喰っていますが、腸活丸2年で髪の毛が黒々としてきました
筆者のは、超簡単です。

納豆毎日1パック+茶麹二粒を毎日摂るだけです。
そしてリンゴやトマトなど生の物を毎日摂るように心がけています。
著者の髪の毛の黒さには、まだおよびませんが後2年もすれば同等になりそうです。

シリカ水については若いときに試したがよくわかりませんでした。
しかしその分水道水を飲まないだろうから、、その悪影響は避けられる。
現在、筆者は蒸留水である。こっちは三年続いています。

筆者は滅多に洗髪はしない、シャワーのときにお湯を流すだけです。
でも頭皮に垢は溜まらなくなっています。
作家の五木寛之さんも洗髪しないとか。古くは菊池寛がいる。
シャンプーについてはいいものが極端に少ない、洗髪しすぎるのもハゲの原因かもしれない。

腸内環境を整えることは健康上極めて重要なことですが、勧める医師が少なすぎます。
難病が増えてきていますが、難病であればあるほど腸活に励む必要があるでしょう。




いろんな治療法やら運動法があります。         
 それらがあなたのお身体に合っているでしょうか? 

 合っていれば少し宛日々改善されていきます。
 合っていなければ日々身体は固くなりゆがんできます。         
 
 その効果を確認する方法をお持ちでしょうか?           
 症状に合ったエクササイズとそのチエック方法を呼吸塾ではお伝えしております。
  


語りと朗読の会  「宮沢賢治を語らう」  

宮沢賢治の作品を台本として発声・表現・語り・朗読について勉強しています。
月二回木曜日10時~12時 


乃木希典と日露戦争の真実

司馬遼太郎著「坂の上の雲」は面白かった。
夢中になって読んだ。
だがそれによって乃木希典は愚将と思いこんできました。
「二〇三高地占領は効果がなかった」を読み、目から鱗が落ちる思いです。
http://mizarux.hatenablog.com/entry/2016/06/24/105520

本書は平成2年に発刊され、乃木神社でのみ販売されていた伝説の書である。
著者の桑原嶽氏は陸軍の俊英として軍事教育を受け、幾多の戦場を経験されている。
桑原氏は司馬遼太郎さんの軍事的な誤りを次々と指摘している。

乃木希典は合理的かつ柔軟な発想で、旅順要塞を短期間で攻略した。
乃木と第三軍の手腕は世界の軍事史上、優れた先例として評価されるべきである。

だが司馬さんは真実を直視せず、
「もっと犠牲の少ない、理想的な解決策があった」と強調している。
それが、「二〇三高地」論であり、児玉源太郎の有能説というわけだ。

                      京都大学名誉教授  中西輝政

司馬遼太郎は無智だった

本書の執筆の動機は、司馬氏の記述が偏見独断に満ち、正鵠を失しているにかかわらず、世間ではあたかもそれが歴史の真実かのように信じられていることに対し、義憤の念止み難きものがあったからである。

司馬氏は二〇三高地を落とし、港内の艦隊を沈めれば旅順攻略は達成できると言っている。
これは市井の床屋談義にひとしく、彼の戦術的無智と言わざるをえない。

二〇三高地占領は効果がなかった

二〇三高地を占領し、そこから艦隊を砲撃することは、海軍の強い希望だった。

しかし、二〇三高地はそれほど重要な場所ではない。
もし占領したとしても大砲を上げることはできない。
二〇三高地は観測所にしかならず、砲弾地は後方に置き、自由に走り回る軍艦を目標とするという、非常に難しい遠隔射撃をしなければならない。

対して、相手の軍艦は高地に向かって直接標準で撃ってくる。
しかも目標は山である。ロシアのほうが格段に有利である。

第三軍に与えられた任務は 旅順要塞の攻略 である。
そのためには、二〇三高地よりも望台のほうが重要拠点だった。
二〇三高地を攻略せよと言われても、乃木がうんと言わないのは当然だった。

ロシア艦隊撃沈は意味がなかった


たしかに、わが軍は二〇三高地を占領するやいなや、戦艦を相次いで撃沈した。

しかし、その3ヶ月前にロシアは艦の火砲を陸にあげており、乗組員も要塞に移動していた。
艦隊としての能力はなく、ただの鉄の箱にすぎなかった。
だから、彼らは反撃しなかったのである。
敵将ステッセルは、これで役立たずを処分できたと心中快哉を叫んでいたかもしれない。

わが海軍はこのことを全く知らなかったのである。


児玉神話は真実か


二〇三高地は参謀総長の児玉源太郎が、わざわざ旅順まで出かけていって、やっと落としたことになっている。
いわゆる児玉神話である。

乃木が二〇三高地攻撃を決心したのは 11/27
児玉が旅順行きを決心したのは    11/29  である。
  このとき、児玉は「乃木は死ぬ覚悟だ」と直感したに違いない。

児玉が総司令部を出発したのは11/29夜、二〇三高地をめぐる攻防戦がたけなわのときである。
もし、児玉が乃木に代わろうとすれば、完全にタイミングを逃している。

『坂の上の雲』では、児玉将土壇場の感を読む者に与える。

しかし、冷静に戦史を読んでゆくと、また客観的に戦闘の経過を分析してゆくと、児玉大将が旅順に行って直接戦闘の指揮をとったから、二〇三高地が落ちたなどという議論がいかに滑稽極まるものであるかがわかるのである。


乃木は世界の名将だった


本当に乃木が庸将であるなら、
日露戦争における乃木の功績が世界中で名声を博したことの説明がつかない。
明治44年4月、彼が渡英したとき、欧州各国はこの名将の訪問を熱烈に歓迎した。

水師営の会見では、乃木は投降してきたステッセルに帯剣を許した。
敗軍の将に恥辱を与えてはならないとして、乃木は従軍記者にたった1枚の写真撮影しかさせなかった。
この振る舞いは前代未聞であり、世界に衝撃を与えたのである。



  いろんな治療法やら運動法があります。         
 それらがあなたのお身体に合っているでしょうか? 

 合っていれば少し宛日々改善されていきます。
 合っていなければ日々身体は固くなりゆがんできます。         
 
 その効果を確認する方法をお持ちでしょうか?           
 症状に合ったエクササイズとそのチエック方法を呼吸塾ではお伝えしております。
  


語りと朗読の会  「宮沢賢治を語らう」  

宮沢賢治の作品を台本として発声・表現・語り・朗読について勉強しています。
月二回木曜日10時~12時 



【世界最強だった日本軍航空部隊】B29爆撃機を485機も撃墜した本土防空部隊

 「戦争末期の日本は、7000~9000メートルの高高度を大挙して押し寄せるB29に手も足も出せなかった」と聞いていたが実はそうではなかった。
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20160623/dms1606231550005-n2.htm

1942年4月に新たに編成された日本陸軍「飛行第244戦隊」は、東京・調布基地を拠点に帝都防空戦に大活躍した精鋭部隊である。保有機は40機の三式戦闘機「飛燕(ひえん)」だった。

 この部隊に44年11月、24歳の小林照彦大尉が戦隊長として着任した。小林氏は後に、B29爆撃機10機を含む、敵機12機を撃墜した「本土防空戦のエース」となる。同隊は翌12月、B29の大編隊を迎え撃ち、6機撃墜・2機撃破の大戦果を上げた。

 このとき、四宮徹中尉は、B29への体当たり攻撃で片翼をもぎ取られながらも無事帰還した。中野松美伍長は、B29の真上に張り付く“馬乗り”の姿勢で、B29の胴体をプロペラで切り裂いて撃墜し、生還した。板垣政雄伍長も、最後尾を飛んでいたB29に体当たりして帰還した。

 この日の武勲により、空対空特別攻撃隊は「震天制空隊」と命名された。その名の通り、B29の乗員を恐怖に陥れる一方、日本国民の戦意を高揚させた。

 B29は11人の搭乗員を乗せている。従って、1人乗りの「飛燕」が体当たりして撃墜すれば、11倍の敵と刺し違うことになる。当時言われていた「一人十殺」は単なる掛け声ではなかった。
「戦争末期の日本は、7000~9000メートルの高高度を大挙して押し寄せるB29に手も足も出せなかった」とばかり聞いていたが実はそうではなかった。夕刊フジの記事である。

 先の戦争におけるB29の被害機数はあまり知られていない。本土空襲にきた約3万機のうち、何と、陸海軍の本土防空部隊によって485機が撃墜され、2707機が撃破されていたのだ。

戦争末期の日本は、7000~9000メートルの高高度を大挙して押し寄せるB29に手も足も出せなかった-という話が横行しているが、そうではなかったのだ。帝都上空では、飛行第244戦隊が立ちはだかった。

 戦後、前出の小林氏や、専任飛行隊長の竹田五郎大尉、B29を5機撃墜・7機撃破した撃墜王、生野文介大尉など、本土防空戦に活躍した面々は、航空自衛隊でも本土防空を担った。

 ちなみに、竹田氏は1976年9月、ソ連のベレンコ中尉が亡命を求めてミグ25で函館空港に飛来したときの北部航空方面隊司令官だった。このとき的確に対処できたのは、かつての本土防空戦の経験からだろう。

 竹田氏はその後 第14代航空幕僚長となり、さらに自衛隊制服組のトップとなる第12代統合幕僚会議議長を務めている。

 戦後の日本の空も、飛行第244戦隊の精鋭によって守られていたのであった。 2016.06.23




  いろんな治療法やら運動法があります。         
 それらがあなたのお身体に合っているでしょうか? 

 合っていれば少し宛日々改善されていきます。
 合っていなければ日々身体は固くなりゆがんできます。         
 
 その効果を確認する方法をお持ちでしょうか?           
 症状に合ったエクササイズとそのチエック方法を呼吸塾ではお伝えしております。
  


語りと朗読の会  「宮沢賢治を語らう」  

宮沢賢治の作品を台本として発声・表現・語り・朗読について勉強しています。
月二回木曜日10時~12時